自分の感じたことだけ

いま、この場所で

「世界最強を目指す」ことのすすめ

はじめに

「世界最強になる」という目標をもつ、と言う話。

 

だって男の子だもん

「世界最強」。

いったいこいつは急に何を言い始めたのかと思うかもしれない。だが、これが今の私の目標である。

皆さんは「グラップラー刃牙」という作品を知っているだろうか?

グラップラー刃牙」は1994年に発売された「格闘マンガ」である。今では様々なスピンオフ作品などが出ており、累計7500万部売り上げている(bywiki)。そして、私がかなり影響を受けたマンガの一つである。

この作品の特徴として、作品内で「地上最強」というキーワードが頻出することがあげられるだろう。まず、主人公の父親が「地上最強の生物」という肩書をもっている。また煽り文句も「男なら誰でも一度は地上最強を目指す」。テーマは「地上最強とはなにか?」といった感じである。

私の目指す「世界最強」というのは、この「地上最強」にあやかった形になる。

では、なぜ私は「世界最強」を目指すのか。

これはもう非常にシンプルで、それがワクワクするからだ。

「自分は世界最強に近づいている」

「自分は世界最強を目指している」

この自覚だけで胸が踊りだす。別にやることは何でもいいのだ。「それが世界最強につながるか?」それだけを問えばいい。

加えて、この「世界最強」という言葉が便利だというのもある。この「世界最強」は、まず定義として非常に曖昧で測定しようがない。これは「世界一」なども同じだが、言葉の意味があまりにも広範囲に渡るため、基本的には決定しえない。「世界一」であれば例えばギネス記録など、記録に残るようなものであれば決定することも可能では有る。しかし、この測定可能性という意味ですら、「世界最強」となると難しくなる。それは、「強さ」というのがすでに曖昧なものだからだ。

更にいえば「世界最強」はおそらく言葉の意味通りに実現することは不可能だというのもいい。私は常々「簡単にできることはつまらない」と思っている精神の持ち主なので、結構無理難題のほうがテンションが上がる。目標を達成することによる達成感はえられないかもしれないが、「少しずつ世界最強に近づいている」という実感があり続けることのほうが大事だと私は思う。生きているうちに達成できる必要はない。すこしづつ目標に近づいている。この感覚があればいいのだ。

極論を言ってしまえば、「毎日すこしづつ成長していこう」ということの言い換えに近いのだが、これでは全然気が乗らない。それよりも「自分は世界最強を目指してます」という方が胸をはれる。別に公言する必要はない。自分で思っていればいい。

なんの世界最強になるのかもその時の自分で設定すればいい。「世界最強のプログラマー」でもいいし、「世界最強の歌手」でもいいし「世界最強のゲーマー」でもいいだろう。なんでも「世界最強」とつければなんだか目指すのが楽しくなってくる。

 

結論

目標なんてそれでいいのだ、と私は思う。というところで今日はこのへんで。

 

お疲れさまでした。

 

 

今日のひとこと

俺ガイルのアニメが待ち遠しすぎて朝が起きれない。

「YAYOI、いきまーーす!!!」

はじめに

やよい軒が進化していた、と言う話。

 

やよい軒から始まる物語

皆さんは「やよい軒」というチェーン店にいった事があるだろうか?

一言で説明すれば、「日本の定食を提供するチェーン店」である。

以下、公式サイトより引用。

やよい軒」では、日本人の主食である炊きたてのごはんを中心に、みそ汁、そしておかずと副菜などを一つのお膳にバランス良くまとめた『定食』を提供しています。
やよい軒」はそんな日本の食の知恵がつまった『定食』をもっと多くの人々に広げるために、「YAYOI」として世界に展開していきます。

「彌生軒」から「やよい軒」そして 「YAYOI 」へ。
日本のおいしい食を未来につなげ、世界の人々に広げていきます。

www.yayoiken.com

上記で述べられている通り、日本だけでなくタイ、シンガポールアメリカなどの海外にも進出しており、ワールドワイドに「Teishoku」」を広めようとしているお店である。

 

この「やよい軒」の最大の魅力は「ご飯のおかわりが無料」という点につきる。しかも定食の価格は600~700のものが多く非常にコスパがいい。まさに学生の味方である。かくいう私も安月給で働いているためやよい軒にはとてもお世話になっている。ほぼ毎日通っているため、もはや「第二のおふくろの味」と言っても過言ではない。

そんなやよい軒も、コストカットによってなのか一時期おかわり有料になりかけたこともあった。だが、やよい軒ファンの熱い要望により再び無料になったのは記憶に新しい。

やよい軒「おかわり有料化」を一旦終了 12店舗で試験導入、運営会社「これから検証」: J-CAST ニュース【全文表示】

 

もはや「やよい軒」=「ご飯無料」といってもいいだろう。

 

しかしそんなやよい軒に悲劇が訪れる。それが「コロナウィルス」である。

飲食店が軒並み大打撃を受けた今回の騒動だが、やよい軒も例外ではない。特におかわり無料のシステムをセルフサービスで展開していたやよい軒は、「不特定多数の接触」の危険性を鑑みて、お櫃を撤去せざるを得なかったようだ。

一応店員に声をかけることでおかわりを持ってきてもらうシステムを維持し、やよい軒の強みであるおかわり無料は維持していた。しかし当然お客としてはいままで自分のタイミングで可能だったおかわりに、「店員を呼ぶ」というワンアクションが入ったことでおかわりのハードルが(とくに私のような奥ゆかしい人間としては)かなり上がってしまったと言わざるを得ない。もちろん店側としてもいままで存在しなかった「ご飯をよそう」というフローが発生したことによって生産性に大きなダメージがはいったことだろう。

当然「やよい軒コロナウィルス対策本部」では緊急会議が開かれたはずだ。

 

支部長A「議長、各店舗からおかわりの要望によって生産性に影響がでていると言う報告が多数きています。コロナの影響もあり、現場スタッフの疲労もピークに達しているかと」

支部長B「こちらも同様です。…ここはやはり、”おかわりの廃止”にふみきるべきでは…」

議長「バカをいうな!!おかわりこそがやよい軒アイデンティティだと何度言ったらわかる!」

支部長C「議長、Bも私も学生の頃やよい軒にお世話になった身。おかわりの重要性はもちろん理解しております!しかし、コロナの影響で売上も低迷しているなか、もはやコストとしても無視できません!このままでは…!」

議長「…」

支部長A・B「議長…!」

 

そこへ扉をあけて、白衣の人物が登場

 

研究員「議長!」

 

議長、立ち上がる

 

議長「…できたのか」

研究員「はい、ついに…完成しました。」

議長「そうか…。よくやってくれた!皆、もう大丈夫だ。」

支部長A「議長…。一体…?」

議長「実は、コロナが始まった時から、ずっとおかわりを無料でつづけ、店舗スタッフにも負担をかけず、なおかつ衛生面もクリアできる方法を研究してもらっていたんだ。」

支部長B「まさか…」

議長「そうだ。できたんだよ。

ごはんおかわりロボ、がな。」

robotstart.info

議長「みんな、いままでよく頑張ってくれた。」

 

支店長A・B・C「議長…」

 

 

 

 

結論

という話があったかどうかはまったくわからないが。

こういう逆境にもめげず新しいチャレンジをしていくやよい軒を私は応援します(なんの宣言なのか)。

ちなみにこのおかわりロボ、お茶碗をのせた段階で重量をはかり、ご飯の量をボタンで押すと、そこから+〇〇gまでご飯をお茶碗に投下するシステムとなっている。なるほどと言う感じである。

また御飯の量もお客様に合わせて50g、100g、150g、200gと選べるすぐれものである。

とりあえず何が言いたいかというと。

 

すごい使いやすかったので感動しました。

 

(これを書くためだけにいままで一番長いブログを書いてしまった…。)

というところで、今日はこのへんで。

お疲れさまでした。

 

 

今日のひとこと

おすすめは肉野菜定食。

マタイって真鯛と似ているよね

はじめに

inputを変えない限りoutputは変わらない、と言う話。

 

求めよさらば与えられん

今までと同じ暮らしをしながら、今までとは劇的に違うものが出てくるというのは虫のいい話で。表現の仕方とか形式とか、そういう表面的な部分はinputが同じでも変えることができるだろう。

でも、根本のところは変わらないと思う。新しいoutputがしたいのであればいままでと違うinputをする。違う道をあるく、違う人と合う、違う仕事をする。そうすると今までとは違った景色が見えてくることがある。

 

と書いていて、ふと思ったが、私はoutputを変えたいのか?

 

このブログは毎日浅いところをちゃぷるものだけど、別である程度一つのものに時間をかけて何かを作りたいという思いが最近でている。それは別になんでもいいのだけれど。動画であったりゲームであったり。そういうなにかを作りたい。

 

そして、このブログを書いていて、自分のoutputが面白くないような気がしている。まぁ以前にも書いたように面白さは作り出せるもの。つまり素材をどう活かすか。料理と同じだね。素材そのままではステーキだってクッキーだってつくれない。なんとかこれを食えないかということで試行錯誤されたのが料理なわけで。

 

となると、いま自分がやっているのは素材をつんつんしてほじくっているところ。その出てきたものではそこまで面白くない。それを加工して面白くするのが自分の思考力が試されるところなわけだ。

 

だから今の段階で面白い面白くないを論じる必要はなくて。これらはすべて素材なのだから面白くなる可能性はある。しかも料理と違って素材と完成品の明確な区別がないのだから、完成品をさらに素材として捕らえ直す事もできる。ゲームで一番最初の武器だって鍛えれば最強とまではいわないまでもかなり強い武器になる。まぁそこまでになる効率は多分悪いけどね。

 

ここで話が飛躍するが、すごいというか恐ろしいことに、「面白いもの」は完成した瞬間に面白くなくなる。だから面白いものを求める旅に終わりはない。

面白いものを求める人生は過酷だ。でもきっと一番面白い。

変え続けること。進み続けること。その中にきっと次の面白いがある。

 

最初は面白いかどうかは関係ない。まずはありのままを受け止め、試行してみること。そこから「もしかしたら面白くなるかも?」というのが思い描けたらなんとしてもそれに辿り着こうとすること。面白くするにはかなりの苦難が伴う。だけどそれを抜けた先に面白いものはある。そしてもしそれが実現できても、そのうちそれに飽きて次に行くことになる。だとすれば、人生はこんなにも輝いている。

 

結論

色々書いたが結局は今のoutputが面白くないから変えたいのよね。となると別のinputをする必要がありますな。

さてどうしようか。とりあえずyoutubeで見る動画を変えてみるかねぇ。というところで。

お疲れさまでした。

 

 

今日のひとこと

最近仕事で会議が多くてしんどみ。

自分の身は自分で守る

 

 

今日、仕事帰り雨が強く降っていた。朝からかなり雲行きは怪しかったから、その兆候はあった。その時点で今日は雨が降りそうだという予想を立てられれば、コンビニで傘を買わずに済んだかもしれない。

最近、雨が続いている。梅雨に入っているのだからそれは予想できることだ。だからあらかじめ天気予報をしらべて、洗濯物を干せそうな日を探しておけばなかなか洗濯物が干せないという事態にはならずに済んだかもしれない。

この頃、歌がうまく歌えなくなっている。学生の頃みたいに練習をしているわけではないのだからこうなることはわかることだ。だから歌のレッスンをうけるとかしておけば、こんな思いをしなくて済んだかもしれない。

ずっと、お金のことで苦しんでいる。これからますますお金が必要になるのはわかりきっている。だから今のうちから勉強しておけばお金の都合で好きなことを我慢することはないのかもしれない。

 

どこまで自己責任で進めばいいのだろうか。

どこまで「今のうちに」やっておけば理想の未来はやってくるのだろうか。

未来は「今」を犠牲にしないと得られないのだろうか。

そんなことを考えた今日。

 

誰かが助けてくれないかと頭のどこかで期待している。

どこかで突然幸運が訪れないかと心のどこかで願っている。

 

周りに期待する弱い自分。

それじゃだめだと否定する自分。

 

心の声はどれだろう。どの心の声を信じればいい?

 

本当はもっと簡単な話。

疲れているだけかもしれない。

ぐっすり寝たら、明日にはすべて解決しているのかもしれない。

 

それでも、悩まずにはいられない。

 

腹をくくるのは、いったいいつになることやら。

 

 

今日のひとこと

「思い」を「形」に昇華するのが芸術なんだとふと思った(自分の文章が芸術だといいたいわけではありません)。

一月の振り返り。

はじめに

ほぼ毎日投稿を続けて一月立ちました、と言う話。

 

今明かされる衝撃の真実

この一月、(ほぼ)毎日ブログを書いてきた。そして2つわかったことがある。

まず1つはだれも私の文章を読んでいない、ということである。

アクセスを見ると、天気の子の感想が一番多く読まれたようだ。流石に話題になった作品についてだとビューが伸びるらしい。といってもまったく大した数ではないのだが。

これは「読みたいことを書けばいい」でも書いてあったことだが、文章を読んでもらうならまず最初に有名人になったほうがいいというのは間違いなんだなというのを実感する。考えてみれば当たり前で、どこの誰が書いたかわからないような文章(しかもそれなりに長文&タイトルが怪しい)を好き好んで読む人などいない。自分でも多分よまない。というよりまず見つけられない。私の記事を読んでくれた方はよく見つけてくれた、と感謝するほかない。

そして2つめは、意外と自分は文章を書くのが好きなんだなということである。

上記に述べたとおり、このブログはまったくといっていいほど読まれていない。にも関わらず、30日間ほぼ毎日1000文字ほど文章を書いたわけだ。文字数にして30,000文字。原稿用紙約75枚である。こう書くとなかなかすごい。いきなり書けと言われたらかなりの苦行だろう。

しかし、続ける事自体はほとんど苦ではなかった。ネタが無くて困ったことは結構あったが、意外と文章を書くというところでは苦痛を感じることはなかった。もちろん、そこまでちゃんと文章構造を整えて書いたわけでも、面白さを重視して書いたわけでもない。だから、ちゃんとした文章かと言われると怪しい気はするのだが、それでも作文ぐらいにはなっているだろう。

これは個人的には意外だった。自分はもっと評価されないとやらないものだと思っていたので(アクセス解析をみて0が続くと結構ショックだったりはしたのだが)。自分が想像していたよりは、読む人がいないことでモチベーションが下がることはなかった。

ここから導けるのは、私と言う人間は反応してくれる人が一人でもいさえすればいい、ということなのかもしれない。流石に全く読まれないのはちょっと悲しい。だが、一人でもこのブログにアクセスしてくれる人がいればそれが励みになる。自分は、そういう省エネな人間なのかもしれない。

 

結論

自分の支援者を一人はもとう。

一人だけでも支援者がいるようにすれば、新しく物事を始めても評価されないことを恐れずにすむかもしれない、ということで今日はこのへんで。

お疲れさまでした。

 

 

今日のひとこと

ほんと、お疲れさまでした。

読書感想文は嫌いですが読書は好きです。

はじめに

自分は感情というものが少ないと思っていたけど、案外そうでもないかもと言う話。

 

感情って記憶なんじゃないか

皆さんは小学生とか中学生のときに苦手だったものはあるだろうか。

勉強や体育の授業だろうか。それとも人によっては教師(口臭とか)や隣の席のうるさいやつとかが思い浮かぶかもしれない。

私にとって一番苦痛だったのは「日誌」だった。

もちろん他にも苦手なものは結構あった。勉強はそれほどでもなかったが、体育はそこまで得意ではなかったし、苦手な教師もクラスメイトもいた。

それでもなにか一つを挙げるのであれば、やはり「日誌」というものになるだろうか。

ここでいう日誌とは「楽しかったこと」や「面白かったこと」を書いてくださいとかいうやつだ。夏休みで楽しかったこと、運動会で頑張ったこと、文化祭で思い出に残ったこと…。一応大枠で言えば読書感想文もこのうちにはいるだろうか。

私はとにかくこういう類の振り返って感想を書くということが本当に苦手だった(し、いまも苦手)。

原因は色々ある。まず、なんとなく誘導されている気がする。なにかいいことを書かなきゃいけないような気になってしまうというか。楽しかったことで「ゆったり家でゴロゴロしていたこと」と書けない雰囲気というか。そういうものを感じてあまりいい気分にはならなかった。あとはこういう日誌の課題でいい評価をもらった覚えがない、つまり成功体験がなかったのも要因の一つかもしれない。

しかし原因として一番大きいのは「何を書いたらいいのかわからない」ということだった。なにが楽しかったことなのか、印象に残ったことなのか。それがわからなかった。

もちろん楽しいことはあったはずだ。生活していて本当になにもなく平坦なことはむしろ少ないだろう。一日のなかにも多少の起伏がある。夏休みだってずっとゴロゴロしているわけではなく、一度ぐらいは家族で旅行にいったりしていた。

それなのに私は何を書けばいいのかわからなかった。色々楽しかったことはあったとしても、それらはあとから振り返ると、すべて記憶の中の事実でしかない。それらは単純に出来事であってそこに自分が楽しかった、嬉しかっただの私情を挟む余地はない。そういう感覚になってしまうというか。

これが地味に結構しんどい。例えば私のクラスには毎日「聞いて聞いて、昨日面白いことがあって…」みたいに話す人がいた。多分みなさんの周りにもそういう人と思う。心で半分「そんな毎日面白いことあるわけ無い」みたいに冷笑していたが、もう半分では「そんなにたくさん自分で語ることがあっていいな」とも思っていた。

「私は語るべきことがない、感情の起伏がないつまらない人間だ。」

いつしかそういうレッテルを自分に貼っていた。今もその節はあると思う。まぁまぁ記憶力は良かったので「ただ物事を記憶しているロボット」みたいなことぐらいは思っていたかもしれない(若干うぬぼれ)。

だから逆説的に表現することに飢えていたのかもしれない。吹奏楽部に入ったり、演劇部に入ったり。いろいろ表現する技術というかそういうものを色々吸収したかったのかも。

それで少しはましになった。若干人前で話すのもうまくなったし、なんとなく表現を形にするということもこなしてきた。

でも、それは誰かの思いをなぞっていただけで。結局自分自身が空虚であるという思いは変わらなかった。「自分もマンガとかみたいに熱い思いで動く経験がしたい」。そういう思いはあるが、そういうものが一向に自分からでてくる気配はなかった。

今日も今日とて、「なにか書くことはないか」と一日を振り返ったりしては見たが、そういう思いはなく。どうしたものかと悶々としていた。

と、一日を思い出して、ふと気づいた。

この「思い出す」=「覚えている」ということ自体が意味のあることなのではないかと。つまり、どういう事実を「覚えている」かをみると、自分が何を大事と思っているかはわかる=どういうことで感情が動いたのかわかるのではないかと。

「記憶」しているということは、つまりそれが大事なことだと、無意識的にか意識的にか「自分」が判断したことなわけだ。何かを大事なことだと思う、それはまさしく「自分の感情」といえるものではないのだろうか。

いままでマンガなどをみて育って来たものだから、「感情」というものは自然と湧き上がってくるものだと思っていた。もちろんそういう類の感情もあるだろう。ただ、もしかしたらふと振りかえったときに「感情を見つけ出す」ということもあるのかもしれない。

 

結論

これからは「自分の記憶」に残ったことが「自分の感情」になるんだと思って生きていきたい。

そうすれば昔の自分も少しは救われるような気がする。

ということで、今日はこのへんで。

お疲れさまでした。

 

 

今日のひとこと

一日9時間半は寝たい。

ウーパールーパーになりたい

はじめに

自由ってなんだろうという話。

 

子供は金がなく、大人は時間がない

今日は自由に行動できた日だと思う。朝起きて日課をこなし、歯医者にいき買い物をすませて髪を切った。そのあとはアニメを見て今はこうしてブログを書いている。自由を感じた。

ふと自由の意味とはなにかを考える。「自由」は自分が思ったことを他から妨害を受けず思うように実現できることだ。前にも書いたような気がするが「思うように実現できること」が大事だ。

自由の意味が「思うように実現できること」であるならが、まず「思う」ということが先に来なければいけない。「思う」でも「想像する」でも「願い」でも何でもいい。逆に言えば先に自分が思うことがなければ「自由」は得られないということだ。その意味では他人に言われたとおりに生きてきた人間は「自由」ではないとえるだろう。

つまり、自由であるということは自立できていることが前提条件となる。他人の言いなりになっていては自由は得られない。そして実現するためにはある程度の力が必要だ。それは金であるかもしれないし人脈になるかもしれない。それら何かしらの力を使って思ったことを成し遂げ、初めて自由といえる。

この意味で言えば、子供はかなり不自由といえる。大人から見ればしがらみも責任もなくて自由に見えるかもしれないが、彼らには実現する力がほとんどない。ものを買ってもらうにも、どこかに行くにも親の承諾が必要だ。だから「思い」はあったとしても実現する力はない。だから子供は不自由といえる(といっても、子供が願う範囲によって変わるだろうが。その子供の願いがその子供の力の範疇でかなっているのであれば、その子供はまったくもって自由といえる)。

では大人はどうだろうか。もちろん様々な事情があるので一概には言えないが、基本的に力はある。自分で海外旅行だっていけるし自分が食べるものは自分で好きなだけ選べる。一日好きなだけアイスを食べてもいいし、ゲームをたくさん買ってもいい。だが大人は自由だろうか。

私が思うに、私を含め「自由」ではないと感じている人が多いのではないかと思う。それはなぜだろうか。

それは「思う」ことが少ないからだろう。平日は朝から夜まで働いて家に帰ったら少しYoutubeをみて寝る。休日は平日の疲れをとるために家でごろごろする。そんな暮らしをしていると、「思い」という部分が欠けてくる。子供心を持つのは大切だというが、日々心をすり減らして働いているとそんな余裕もなくなってくる。ただ漫然と日々を過ごすだけになってしまう。それに金も無限にあるわけではない。老後の不安もある。そう考えてしまうと、仮に「思う」ことがあったとしても踏み切れなくなる。結果思いを押し殺すことになる。

肝心の仕事は大体において「思う」ようにはいかない。たくさんの人がかかわっているし、自分の決定だけで進められるものではない。自分だけがいいと思っていてもほかの人が納得してくれなければ物事は進まない。逆に自分が納得していなかったとしても上司がいいと思えばそれで進める。それが仕事だ。だから余計に心を押し殺す。

かくして私のような「不自由」な人間が誕生する。別に現状の仕事にそこまで不満があるわけではない。給料も暮らしていくぶんには問題ない。でもなにか閉塞感がある。このままでいいのかという思いを感じる。

私はこのままは嫌だ。こんな気持ちで一生を終えたくはない。

となると仕事との向き合い方を考えることになるだろう。上記の論理で言えば「仕事が大変だから自由になれない」ということになっている。となれば仕事をどうにかする必要があるだろう。

仕事を辞めるか。いや、それでは力を失ってしまう。貯金もほとんどない私は仕事を辞めてしまうと誰かに養ってもらうか生活保護をうけるしかない。まぁ生活保護という手段があるからいけるという手もあるが、それはまだとっておきたい。というか自分で何とかしたいという思いがまだある。

辞めないで自由をえるとなれば、必然、仕事を「自由」にこなす必要がある。それはどうやるのか。当然ながら人を自由自在に操ることなどできないから自分のやりたいことをやるというわけにはいかない。一人で仕事をすればいいのでは、といってもその仕事でお金を払うのは自分以外の人間であるから、仕事が独りよがりになっては意味がないし、受け入れてもらえても報酬がもらえるわけではない。つまり「人」も「成果物」も「金」も思い通りにはならない。果たしてそんななかで仕事を自由にこなすことは可能だろうか。

もし仕事で自由にできる部分があるとすれば、それはおそらく唯一「自分の意志」ということになるだろう。つまり、自分がどう仕事に取り組むのか、なにを思って仕事に取り組むのか。それだけが自分が「自由に」できることだ。

具体的に落とし込むのであれば、「嫌いな仕事を好きなことという必要はない。好きだと思える仕事を自分でみつけてそれをやろう」ということだろうか。ずいぶん標語っぽくなったが、まぁ確かになというところである。というわけで、まずは今の仕事で自分が好きだと思える部分があるかどうかから始めてみる。

 

結論

意志だけではなにも変わらない。だが、まず意志がなければ永遠にそのままだ。というわけできょうはやけに硬い文章を書いてしまったが、この辺で。

お疲れ様でした。

 

 

今日のひとこと

タイトル詐欺。