自分の感じたことだけ

いま、この場所で

天気の子が教えてくれたこと ー 日常の延長は感覚を麻痺らせる

はじめに

以前のブログで「天気の子」を観た感想を書いたことがあった。

 

haniwaonfuton.hatenablog.com

 

このときは映画を観てからそれなりに日もたっていたのだが、結構な熱量で「天気の子」に対する感想を書いた覚えがある。ただ、例えば家でアニメを見たあとにそういう気持ちになるかというとそんなことはほとんどないなぁとふと思う。inputの量で言えば圧倒的に多いはずなのだが、一体その熱量の違いは何なのだろうか?

もちろん、作品の長さ・クオリティというのは多少なりとも関係していると思うのだが、どうにもそれだけでは説明しきれないような気はする(クオリティの高い30分アニメはいくらでもあるし、最近はNetflixで続けてアニメを見られる)。

今回はそれについて書いてみる。

 

キーは自身の精神状態

「天気の子」と家で見たアニメの違いについて考えてみると、はたと思い当たることがあった。それは自分の精神的コンディションである。

「天気の子」を映画館で観たときは、実は初めて一人で映画館にいった「特別な体験」であった。そもそも映画館にいくという行為自体がかなり久しぶりだったというのもあり、その日は結構浮かれていたと思う。確か上演30分ぐらい前には映画館で待機して普段だったら買わないであろう銀だこを映画館の近くで買ったりしていた。

翻って、家でアニメを見るときはどうだろうか。基本的には「日常の延長」である。

土日の空いた時間で先週見たアニメを習慣でみる。たとえたいして面白くないと思っていても惰性でみる。そこに「特別な体験」のときにあったうきうき感はまったくない。ただいつもしていることを退屈しのぎにやっているだけだ。果たして、見た作品に対して右から左に聞き流す状態の出来上がりである。

もちろん、よっぽど印象的な話(最終回とか)であればある程度気持ちも盛り上がるが、スタートが「日常の延長」であるからして上がっても、「特別な体験」からスタートした「天気の子」にはかなわない。そういうことではないか。

 

終わりに

自分の状態が「特別」な状態でinputすればその時の印象などは鮮明に覚えるが「日常の延長」として物事を処理すれば記憶には残らない。考えてみれば当たり前のことだが。

というわけで、これからはinputするときにできるだけ自分の状態を上げて「特別」な状態でいろんなことを楽しみたいと思う。

 

今日の一言

日々是感謝を忘れずに。